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オルタナティブにいきたい。

取り留めのないことを取り留めなく書き留めるブログ

大学を卒業した日

 大学生活にはあまりいい思い出がないけれど、卒業という最後の日のことをよく覚えている。

 

 仙台市のとある体育館で式を終え、人がごった返す中で僕は大学へと向かった。確か卒業証明書を貰うためで、同じ目的で卒業式後に大学に来た卒業生も多かった。目的も終えた後に喫煙所でタバコを吸いながら、クソみてぇな大学生活だったなとか考えていた。

 そんな時、同じゼミに所属していた友達から、「最後にゼミの先生に挨拶していかないか」と連絡が入った。わざわざ出向いて挨拶をしに行く、というのが苦手だったので躊躇したけど、今日が最後だし、3年間お世話になったことだしと思って彼と一緒に挨拶に行くことにした。

 その友達は、僕が出会った中でも一二を争うほどの好青年で、体を動かすという意味でも行動を起こすという意味でもアクティブだった。大学生という存在に辟易していた僕が聞いても彼の話には嫌味がなく、時には不格好になりながらでも自分の意見を持とうとする誠実ささえも感じられた。彼は僕にないものを全部持っているな、と尊敬していた。

 彼と校内で落ち合い、先生の研究室を訪ねた。3年間お世話になったとはいえ、なかなか先生対少数という構図にはなったことがなかったので緊張していた。先生が招き入れてくれた研究室には沢山の本があって狭かった。そこに置かれたソファーに先生と友達と僕の3人で腰を掛け、卒業の挨拶やお世話になったお礼を一通り終えると、友達は卒業前に海外へ一人旅をした話を始めた。

 なんでも彼が行った国で一人旅をしていると、同じように旅をしていた日本人と会うことがあったらしい。その出会った人に聞いてみると、とある業界で働いている人で、旅は仕事とは無関係だという。その人と色々と話しているうちに、彼はこんなことを聞いた。

 

 「ネガティブになるのは良くない。ネガティブは底がないから、どんどん沈んで行ってしまう。」

 

 だから前向きになるほうがいい、ポジティブに考えたほうがいい、という結論だったと思う。彼の話から想像した「働いている旅人」の人物像から出たその言葉には、その人の味わってきた経験を孕んでいて説得力があった。そして何より能動的な彼の口から出てきたことで、ネガティブに考えがちな僕は尻を叩かれているような気持ちになった。

 彼の目をしっかりと見ながら話を聞いていた先生が、一呼吸置いて彼にこう言った。

 

 「ネガティブがどこから来るものなのかを知る必要があるよね。」

 

 それだ、と思った。

 確かにネガティブに考えるよりポジティブに考えるほうが良いだろう。ただネガティブに考えることを悪いことと決めつけ、蓋をするように目を背けてポジティブになれ、という考え方には疑問を持っていた僕は、この先生の言葉でその疑問の原因をはっきりと示された気がした。

 つまりネガティブに考えるようになったとき、なぜ自分はネガティブに考えているのか、原因は何なのかを知る必要がある。例えば「学校に行きたくない」だったら、なんで学校に行きたくないのか。「勉強が嫌い」なのか、「怒られるのが嫌」なのか、その原因を改善すれば「学校に行きたくない」という気持ちは改善されるのか。それが分かれば、ポジティブになれるかもしれないし、ポジティブになるという0から100への気持ちの変換ほどの労力は必要なく改善されるかもしれない。僕なんか最近では、ネガティブならネガティブなりのやりようがあると考えているので、ネガティブなままでもいい状況だってあるかもしれない。

 そもそもネガティブもポジティブも、物のとらえ方というだけで良し悪しを決めるものではない。こういう表面上の言葉にとらわれ過ぎていることがよくある。「コミュニケーション能力」なんてその最たるもので、必要な時に必要なコミュニケーションが取れれば問題ないのにも関わらず、この言葉のせいで必要以上にコミュニケーションを取らなければいけないという強迫概念をもってしまうし、求める方も必要以上に求めてしまう。ただ、「どこまでが必要なコミュニケーションか」は考えなければいけないと思うけれど。

 

 思えば大学に入学して、最初の色々な講義でよく「情報を得たときはまずそれを疑え」と教えられた。その情報は確かであるか、納得できるまで裏付けるものを探していくことで理解を深める。必要なのは何が原因でネガティブに考えているのか、どんなコミュニケーションを必要としているのかを考えることで、自己の理解を深めることなのだ。それを「ポジティブのほうが良い」だとか、「コミュニケーション能力は高いほうが良い」だとかで途中の理解をすっ飛ばして妄信的になることが僕には出来なかったのだと、先生の一言で気付かされた。

 

 友達は先生の言葉をすぐには理解できなかったようだった。でもだから彼は理解力がない、という事では全くない。むしろ彼はすぐに理解できないようなことでも、しっかりと理解しようと行動する。自分の足りないところを自分の持っている能力で補うことができる。それがあるだけで、周りの大学生を横目に「俺はお前らの考え方、なんか違うってことわかってる」と思いながら、その「なにか」を最後の最後で先生に気づかされた僕なんか比べ物にならない。

 

 そうして大学を卒業して2年以上が経つ。あの日友達が先生への挨拶に誘ってくれたおかげで、自分の中で邪魔をしていた思考が取り払われた感覚がある。それをもとに、ある程度自分の考え方については形が出来てきたと思う。それが正しいのか間違っているのかは分からないけど、確かめるには行動してみるしかないな、と思っている。先生のもとへ一緒に挨拶に行った友達とはそれから会っていないが、もし会えたらいろんな話をしたいなと思う。